MIT-VFJのビジネスプランニングクリニック&コンテスト(BPCC)は、MIT-VFJ認定メンターが徹底したメンタリング・アバイスを行い、事業計画の見直しやブラッシュアップを経て最終審査発表会に至るコンテスト形式のプログラムです。
2001年〜2020年まで開催され、2021年からはベンチャーメンタリングプログラム(VMP)と名称を改め、より一層メンタリングに重点を置いたプログラムに変更されています。
今月は、BPCC 12に「未来の介護をデザインする尿検知シートLifilm(リフィルム)」というテーマで応募され、最優秀賞、新日本賞、正会員特別賞を受賞された宇井吉美さん、そして当時メンタリングを担当されたお一人、山田敦子さんにご登場いただきます。
ニュースリリースなどでご存知の通り、宇井さんは累計12億円の資金調達をされています。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000012.000044112.html
学生起業家が12億円の資金調達を受けるまでに成長した過程や、その成長を支えたBPCCのメンタリングについて、お話を伺いました。
- 司会
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宇井さんにお聞きします。
BPCC(ビジネスプランニングクリニック&コンテスト)12応募当時の「未来の介護をデザインする尿検知シートLifilm(リフィルム)」とはどのような事業だったのでしょうか?
- 宇井
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介護の現場で使用する、身体に機械をつけない非装着の排泄検知システムを作っていました。
介護者を助けたいと思ったのが始まりです。
当時はすでに尿を検知するシステムはありましたが、股間にチューブを入れたり、尿パッドの中の尿を吸い込むという仕組みでした。
私が開発していた装置は、そういった身体につけるものではなく、ベッド上にチューブ付きのシートを敷き、ベッドの中の空気を吸う器具を入れます。
その空気を吸い込んだ先に臭いセンサーがあり、それで尿の排泄を検知するという仕組みを作りました。
起業を考えてた大学生の時、学生ビジネスコンテストでトップを穫って優勝したかったと考えていました。
どうやったら審査員に本気が伝わるかを考えた結果、会社を設立しようと思いました。
起業すれば本気度が伝わると思ったのです。
そのためビジネスコンテストに間に合うように急ピッチで登記を進めました。その1年後、「日本政策投資銀行のDBJ女性新ビジネスプランコンペティション」に応募し、そのコンペティションの手伝いをされていたMIT-VFJ理事の大野一美さんと出会いました。
その頃には、排泄検知システムの製品が少し進化をしていて、女性新ビジネスプランコンペティションのファイナリストに残ることができました。
(当時のプレゼンテーション資料を見直しながら)よくこのプレゼンテーションでファイナリストまで残れたなぁ…。
- 山田
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昔の資料を見てひどいと思えるほど、今は成長しているということだよね。
宇井さんは、当時からプレゼンが非常に上手でした。
優勝するために会社を作るというわけの分からない突破力もありました。
- 宇井
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私はビジョナリータイプなので、数字には弱いんです。
口が上手いから、それっぽく聞こえるんですが、全くバックボーンがなかったんです。
そこにロジックと数字をつけてくださったのが山田さんです。
山田さんがメンタリングくださったBPCC期間中に、事業計画はものすごくブラッシュアップされ進化しました。
あれだけの短期間で、あれだけ成長できた…あの成長スピードも成長度合いも、未だに越えらません。
賞も3ついただきました。
最終審査発表会でプレゼンする時の服装も、山田さんに選んでいただきました。
当時はいつもシャツとパンツというリケジョ風な服装でした。
- 山田
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宇井さんからプレゼンの直前に「服をどうしたらいいか」というかわいらしい相談をされて、一緒に買いに行きました。
- 宇井
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社会人女性としてどのようにしたらよいかということを山田さんから教えてもらいました。
- 司会
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宇井さん、MIT-VFJとの出会いは理事の大野さんだったそうですが、BPCC応募のきっかけを教えてください。
また、当時、BPCCに何を期待されましたか?
- 宇井
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「DBJ女性新ビジネスプランコンペティション」では賞がいただけませんでした。
それが悔しくて泣いていた私に、大野さんが声をかけてくれました。
次はBPCCに出ようと。私は工業大学出身で、先生も含めてビジネス経験がある人が周囲にいませんでした。
ビジネス系のコンテストなら、ビジネスをよくわかっている人に出会えるため、私にとっては出ない理由がありませんでした。
多くの人と知り合えるし、出資者の方にもお会いできるし。
そのため、多くのビジネスコンテストに出まくっていました。また、私はBPCCのメンタリング制度に期待を持っていました。
当時はメンタリングというプログラムを実施しているコンテストは非常に珍しかったのです。
- 司会
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山田さんの現在のお仕事についてお聞かせください。
またお得意分野は?
- 山田
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法人や教育機関を対象により良い組織を作るチームビルディングを実現する会社を経営しています。
「自分がやったことで目の前の人に喜ばれて幸せ。」というのは、ほとんどの人が感じる、人間の根源的な幸福感のひとつだと思います。
そして、人は自分の才能を発揮した時にもっともパフォーマンスが出ます。
つまり、個々人の才能を発揮することと、人に喜ばれること、がスムーズにつながれば社会も世界もどんどん良くなるし、ひとりひとりも幸せを感じる好循環が実現できます。私自身が仕事をしていて日々実感していることなのですが、仕事はひとりでは出来ません。
何かを成し遂げるためには様々な能力が必要となります。
自分の才能を発揮して仕事をしようと思ったら、他の才能を持つ人たちと、良い関係で協力しあうこと。
それによって仕事が完結し、社会に貢献することが出来ます。人にとって、自分の力を発揮できることは幸せです。
自分の力を発揮したことで、周りの人が喜んでくれたり、社会に貢献できたと感じたときに充実感があります。
それこそが、人間の幸せの根幹だと思ってるんです。
人が才能を発揮して社会に貢献するプラットフォームとしてのチーム作りをすることにより、一人ひとりも幸せになり、社会も良くなる世界が実現できる。
そのために力を尽くす人たちが集まっているのが私の仲間です。私が経営するインバイトジャパン株式会社の社員は半分が外国人、日本人が半分の会社です。
社内のコミュニケーションも英語と日本語とその他の言語がちゃんぽん。
ダイバーシティーについては世界トップレベルを自負しています。
グローバルな連携が進んでいるこの時代において、言語、性別、人種を超えて多様な人たちが協力しあって、良い仕事ができる組織を実現している会社です。
クライアントは世界的なIT・製薬・メーカー・金融・士業をはじめとする外資系企業や中学・高校・大学・インターナショナルスクールを含む教育機関など。
多様な価値観を取り入れることでより良い価値を生み出すことの大切さを感じている組織にご利用いただいています。
- 司会
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山田さんにお聞きします。
宇井さんのメンタリングを担当しようと思った理由は?
宇井さんの事業にどんなイメージを持たれましたか?
- 山田
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MIT-VFJのBPCCには第一回から関わっています。
メンターは、応募者の中から誰をメンタリングするのか、希望を聞かれるのですが、私は「お任せします」とお答えして、事務局でアサインされた方を担当しています。ただ、宇井さんの時は、大野さんから直接「この子、何とかして」と言われて、私が担当することになりました。
当時、私にも母の介護があったので、「ああ、介護系だ!」という思いもありました。
私の母は54歳という若さで倒れました。
それまでは元気だった母が突然障害者になりました。
母の介護で、はじめて母のお尻を拭いた時の感覚・感情・思考が私の介護の原体験です。
母はまだ意識が朦朧としている状態でした。
それが救いだと思いました。
元気な状態の母だったら、娘にお尻を拭かれることは耐え難い屈辱だろうと思いながら、それでも、今必要だからお尻を拭きました。
今、やるしかないからやるだけ。
仕事でもそういう場面はたくさんあったのに、拭きながら感情は揺れたし、泣いている場合でもなく流すべきでもない涙が出た。
周りに見せられないから何とか隠しても目は赤いだろうなということが自分でも分かる。
それでも、何事もないかのようにふるまおうとする。
自分でそうしているつもりだけだったのかもしれないけれども。。。
そういう経験から課題を感じていた介護世界にかかわる機会を頂けたとも感じました。
- 司会
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先ほど宇井さんから、メンタリングの内容を伺いましたが、山田さんの立場からするとどのようなメンタリングでしたか?
また、解決すべき課題は何でしたか?
- 山田
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私のキャリアのスタートはシステムエンジニアでした。
私は、システムとはコンピュータの部分だけではなく、それに関わる様々な人がどう動くのか、全体をとらえて見て初めて成り立つものだと考えています。
関わる人とコンピュータシステムがどのように連関して、最終的にどういう「価値」になるのかを描き、それを実現していくことがシステム開発の要諦であるわけですが、それは事業を描き実現することにつながります。このシステムも排泄を検知できたとして、その全体はどうなるのかということを明らかにする必要がある。
それがなければ、ただモノができたとしても、技術者の自己満足に終わってしまいます。
「良いものを作れば売れる」と思っていることも少なくありませんが、それでは実際には売れません。
経済が伴って事業として広まってこそ社会に貢献することができます。宇井さんは、今でこそ介護のエキスパートですが、当時は大学時代に研修で施設に行っただけ。
現場もわからないことだらけだし、おむつ替えもできなかった。
そんな中で作ったビジネスプランですから、コンテスト応募時のビジネスプランはかなりざっくりしていました。メンタリングでは3か月間という限られた期間の間にビジネスプランをブラッシュアップしなければなりません。
現実味のあるプランを作るためには現状を調査して様々な要素を解明する必要がありますがそこまでの時間的猶予はありません。
他のメンターさんのご紹介で、介護事業所にヒアリングに行きましたが、やはり現場に入ってみないとわからない。
ただ、初期のビジネスプランはかなりぼやっとしたイメージだけだったので、とにかく想像しうる限りの仮説を積み上げてモデルを組み立てていきました。
それが出来れば、メンタリング期間の後にも掴んだファクトを基に更に精度を上げていくことが出来ますから。
- 宇井
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最初の学生ビジネスプランコンテストのプレゼンテーションに比べると格段にレベルが上がりました。
山田さんからは毎朝100本ノックする勢いで、プレゼンの練習をしなさいと言われました。
毎朝100回まではできませんでしたが、何度も何度もプレゼンテーションの練習を重ねました。
その後、学生ビジネスプランコンテストの全国大会では優勝することが出来ました。
私の世代の名の残っている起業家たちは、当時、みんなコンテストに出ているという状況でした。
そんな中で優勝ができたことはありがたかったと思います。
- 司会
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BPCCでファイナリストになり、メンタリングを受けたあと、宇井さん自身の取組みや、貴社の事業にどのような変化がありましたか?
- 宇井
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メンタリングを受ける前は、この事業は、技術開発プロジェクトでしかなかったです。
資料を持って行って「こんなことをやっています。人やお金を集めています」とお話しするしかできなかったんです。でも、山田さんのメンタリングを受けて、ビジネスとしての形になってきました。
この状況を見て、当時の技術者であり、現CTOも、当時決まっていた他社の内定を蹴って参加してきてくれました。
良い人材を作れるきっかけになったということは明確です。メンタリングを受けている後半にパラマウントベッドさんからお話が来ました。
一緒に製品開発をしていこうということになり、それも1つの転機になりました。
しかし、大企業との協業においてもベンチャーは相手の言われるがままでいたら、結果的に潰れていたように思います。
大企業側に悪気があるわけではないんです。ビジネスの協業においては注意すべきポイントが数多くあります。
例えば、abaでも試作機をパラマウントベッドさんに納品するというタイミングがありました。
その時プロジェクトに関わっていた学生メンバーたちは、なるべく安価で、かつ機能面に優れた製品だと見せようとしました。
そのほうがプロダクトの良さが伝わると思ったのです。
そして安価にするために、パラマウントベッドさんには、「制作費は2,000〜3,000円です」とお伝えしました。
安く作れることは良いことだと思っていたのです。
そして学生にとって人件費はタダなので、製品に人件費を乗せるという概念もありませんでした。
てっきり先方が喜んでくれると思ったら、「えぇっと…どこから説明しようかな…世の中には下請法というのがあって、あんまり安くするとうちが怒られちゃうんですよ」とおっしゃったんです。意外な反応に私はびっくりしてしまいました。
先方には「もうちょっと色々と考えてほしい(人件費など実費をきちんと積んで欲しい)」と言われました。
それでも私は意味がわからず、きょとんとしていました。その際、すかさず同席していた山田さんが「学生なので…いろいろとわかっておらず…。もう一回見積もり出させますね」と、私に替わり、フォローしてくれました。
ビジネスについて何もわかっていない私たち学生が、山田さんたちに支えられて事業を作っていくことができたという一つのエピソードです。
- 司会
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山田さん、BPCCにおけるメンタリングが終了したあと、宇井さんに対してどのようなことを期待されましたか?
- 山田
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BPCCの表彰式の直後、宇井さんが「山田さん、この後どうしたらいいでしょうか」と言うので「まずは介護事業所にボランティアに行ってみようか」と提案しました。
宇井さんは当時は実習に行ったことがあるだけ。
おむつ交換すらできず、現場のことをまだ何も知りませんでした。介護の現場を良くしようとするベンチャーです。
宇井さんというユニークな個性をもつ人が介護の現場をよくする事業を立ち上げて成功するとしたら、宇井さん自身が介護の現場に入り込んでいて、現場の人たちと心が通じていることが絶対条件になる。
そうでなければ、この事業は成り立たないと思いました。
ただ、介護の現場だって忙しい。
学生に毛の生えた程度の起業家が気軽に見学に来たところで、学生のお遊びだと思われるのが関の山でしょう。
本気でぶつかっていかない限りは受け入れてもらえるはずもありません。
だからこそ、『何かの形で役に立とうとしている』という姿勢を伝えるために、「ボランティアさせて下さい」とお願いするように話しました。その頃の宇井さんはおむつ交換すらできません。
現場に行ったら足手まといでしかないからです。
ボランティアだったら、かろうじて受け入れてくれる事業所があるのではないかと考えました。
それを聞いた宇井さんは、ぽやっとしていてまだよくわかっていませんでした。
結局3、4ヶ月はそのままになっていました。
コンテストが終わったのが11月で、翌年4月からやっと動き始め、施設をリストアップして電話をしたらボランティアとして受け入れてくれる施設が見つかり…宇井さんにとってはそれが小さく大きな一歩となったのだと思います。
宇井さんは、介護の現場に入ってから多くのことを吸収し、現場にのめりこんでいきました。
平日はabaの仕事をしながら週末はすべてボランティアに当てていました。
その結果、介護職として、その事業所で採用されるまでになり、2年ほど職員として働きました。
それでようやく、介護系事業を立ち上げるベンチャー起業家としての実体が出来てきたと思います。この戦略は、宇井さんが、実体のあるケアテック事業を立ち上げる起業家となるために不可欠な道であると同時に、本当に真っ当な製品が開発できた時に効果的なマーケティング活動になるという二つの側面をもっていました。
製品開発のためにはターゲットとなる市場にかかわる様々な人たちとの信頼関係を構築し、理解を深める必要があります。
介護という分野ではその重要性はより一層高いはず、というか、それなくしては成り立たない。
だけど、本気で真摯にマーケットに飛び込み、向き合えばそのプロセスそのものが力強いストーリーになります。
宇井さんのこのキャラクターで、しっかりした実態を持っていたら、絶対にすごいことになると思ったんです。
「工業系の学校に行き、かつ介護施設で働いたことのある私」というものになっていたら、絶対に世間に取り上げてもらえると思いました。当時の学生起業家は、チャラチャラ・キラキラした感じか、しっかりした実態を持っているかのどちらかという傾向があったと思います。
宇井さんの周りにはキラキラした感じの起業家が多かったので、宇井さんもうっかりするとそちらに流れていってしまいそうになっていました。
でも、「取材依頼が来ても、一旦断ろう」と強く助言しました。
一年ぐらいはほんとに世間的には「サブマリン」で、ひたすら介護の現場に行くということを続けていました。
- 宇井
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当時、学生ビジネスコンテスト全国大会などの複数のコンテストで優勝したことから、取材依頼が多くありました。
私は取材が来ると断れなかった。
断り方がわからなかったのです。
当時は、週に2、3本、小さいものから大きいものまで取材を受けていた状態でした。
そして、録音テープのように、毎回毎回同じ話をしていたので、私にとってもあまり意味がないとも感じていました。
その時に山田さんに「なんで最近忙しいと思う?それは取材を断らないからだよ」と言われたんです。
コンテストはもういいかなという気持ちがあったことと、パラマウントベッドさんからのお話があり、そちらを進めたいと思い、取材を断るようにしました。その頃、学生起業家や、女性起業家をキラキラな感じで取り上げるという風潮は確かにありました。
当時は女性起業家の数をまず増やそうという状態。例えば、あるの行政がやっていた女性起業家支援では、私たちのようにVCから資金調達が必要な女性起業家と、エステサロンの開業のために、路面店を押さえる手段が知りたい女性経営者が、一緒くたに扱われていました。
求めている支援内容が大きく異なっているにもかかわらず、理解されていなかったんです。
支援する行政側も混沌としていた状態でした。学生起業家であり、女性起業家であり、介護のビジネスをしようとしている…周りはそんな私を持ち上げて、キラキラ系に装飾しようとする。
そんな流れは確かにありました。
現場に飛び込むのは怖かったけれど、まだ何もわかっていない状態だから、このまま今の状態を続けるのはまずいと思いました。コンテストでは、介護のことを全く知らない審査員を納得させることができても、介護の現場では、経営者からパートの介護職まで、誰も自分のことを認めてくれない。
このままではいけない。
そこでまずは現場に行こうという気持ちに私も徐々になっていったのです。
- 山田
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宇井さんはこのキャラクターなので、やる気があれば、現場に受け入れられると思ったんです。
誰でもできるというわけではありません。
- 宇井
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この写真(掲載写真参照)は、私が介護職をしていた時に撮ったもので、お気に入りの1枚です。
私が働いていたところは自由な事業所だったので、利用者さんが喜ぶ事は何でもやってあげようという考えでした。
この利用者さんに、何をして欲しいか聞いたところ、添い寝をして欲しいと言われました。
この写真は、その時に自撮りしたものです。
こういう形で介護職としての喜びというものを教えてもらえました。別の利用者さんは2つお願いがあると言いました。
一つは「銭湯に行きたい」ということ。
もう一つは、「あなたと一緒にお風呂に入りたい」ということ。
私が入浴介助をしていたら「あなたと一緒にお風呂に入りたいのに、なんであなたは服を着てるの?」と言われたんです。
そこで、「私と一緒に銭湯に行く」という夢をかなえてあげました。
フルーツ牛乳を一緒に飲んで、ジェットバスに入って。
とても喜んでくれました。
銭湯にいらした周りの方たちも協力してくれました。これはわかりやすいニーズですけれど、こうやって利用者さんのニーズを拾い、アクションプランを作り実行して、ご本人のクオリティ・オブ・ライフを上げていくということを経験させてもらいました。
今では、介護職の方から、「あなたは介護の本質をすごくよくわかっているし、この仕事に対するリスペクトも持っている」とおっしゃっていただけています。
山田さんの戦略が花開いたんです。
後編では、知財について、そして女性起業家のライフイベントを乗り越えてきた経緯についてお聞きしています。
宇井吉美 プロフィール
2011年、千葉工業大学在学中に株式会社aba を設立。
中学時代に家族介護者となった経験から「介護者を支える」と誓う。
その後、学生時代に「排泄ケアシステム『Helppad(ヘルプパッド)』」の開発を開始、その後製品化。
2021年、「日本ケアテック協会」理事就任。
MITテクノロジーレビュー主催「Innovators Under 35 Japan 2021」選出。
山田敦子 プロフィール
インターネット黎明期に大手電機メーカーのSEとして電子政府システムの企画〜構築に携わったことをきっかけに新規事業・起業に魅せられ、生涯のテーマとする。
コンサルタント、ベンチャーキャピタリスト、ベンチャーを経てインバイトジャパン株式会社起業。
メンバーの半分が日本人以外の多国籍チームで、国籍・母語・国籍を超えて多様な協力しあい、価値を生み出す組織づくりに注力。
ビジネスモデル、IT、マーケティング、知財、法務、財務を包括的に見たベンチャーの戦略と実行に強み。